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母が末期ガンで突然の余命宣告。在宅看護と看取りを選択した家族としての想いの記録

余命宣告アイキャッチ画像
トミー

こんにちは、トミーです。
数年前にガンで亡くなった母との話です。

この投稿は出来事や家族の気持ちについての記録という意味合いが強いので、詳しい薬剤の名前や治療については触れていません。

今年で母の7回忌を迎えました。

余命宣告なんてテレビドラマの世界だと思っていた私。

そんな能天気に暮らしていた毎日が急転してしまうのが病気の怖さですよね。

私が20代半ばの頃に母が末期ガンであることが判明し余命宣告を受けました。

まさか自分の親に限ってそんなことは…

まだまだ10年も20年もずっと先のことだと思っていたのに。

自分の心の整理もつかないまま毎日の仕事や慣れない家事に追われる日々はとても辛かったです。

同じような境遇にいる人やその家族の方たちのやりきれない思いが少しでも整理できるようにここに記事としてまとめておこうと思います。

目次

ガンが判明するまで

きっかけは胃カメラでした

母はリウマチを患っていたので、かかりつけの病院で定期的に診察や検査を受けていました。

以前からストレスなどで胃が痛くなりやすかった母。

先生からは一定の期間ごとに胃カメラで検査しておきましょうと言われていました。

ちなみに前回2年前くらいにに胃カメラをした時は、小さい胃潰瘍の跡があると言われたそうです。

だから先生が念のため「また1年後くらいに胃カメラやりましょう」と言ったのに、次に胃カメラをしたのがそこから2年後くらいだったようで。

ガンが判明したときの胃カメラの映像は知識のない母が見ても明らかに変な様子だったみたいです。

先生

これはすぐに大きい病院で再検査してもらったほうがいいと思います。

と言ったそうです。

「ガンなんでしょうか?」と聞く母に対して

先生

その可能性が高いと思いますが詳しい検査をしてみないとわかりません。

とのこと。

私が車で母を迎えに行くと、「どうしよう、大きな病院で再検査だって」と不安な顔をしていました。

その胃カメラの映像を自分の目で見ていたからこそヤバイということを実感していたのだと思います。

でもそんな状態を全然わかっていない私は

トミー

どうせ大したことないだろうけど、もしガンだったとしても手術や抗がん剤で治るんだろうし大丈夫でしょ

なんてちょっと軽く考えていました。

家族が大病をしたことがなかったから、まさか自分の親がそんな大変な状態だなんて考えもしていなかったんですよね。

大きな専門病院で再検査

それからすぐに紹介先の病院の予約をとって検査することになりました。

検査結果を聞きに行く日まで2週間ほど。

もしもガンだったらこの期間の間にもどんどんガンがひどくなっていくんじゃないかと思ってしまうくらい体感としては長い日々でした。

大きな病院ってどこも予約を取るのに時間がかかってしまうイメージはあったので、本当にそうなんだなって実感したのを覚えています。

検査結果が出るまでに不安な毎日を過ごすのが怖かったので、私の提案で県内ですが1泊2日の家族旅行に行きました。

幸いにも母は自覚症状がそんなにひどくなかったので旅行に出かけることが可能だったんです。

父親は仕事柄あまり連休がないし出かけるのが好きではなかったので、実は最初で最後の家族旅行でした。

突然突きつけられた余命宣告

そして運命の日。

父と母が2人で病院へ検査結果を聞きに行くということで私は仕事へ。

“帰ったら話がある”とだけ連絡がきた時、あーやっぱりガンだったんだ。

と悟ってしまって一人で職場の休憩室で涙してしまいました。

自宅に帰るとそれはもう暗い雰囲気で。

そこで“ガンだということ”さらに“末期のガンで余命2ヶ月と言われたこと”を聞きました。

あらかじめ考えていた悪い予想よりも遥かに悪い結果になんと言っていいのか分からなかったです。

家族で泣きながら晩ご飯を食べた時のことは今でも鮮明に覚えています。

でも、このまま泣き寝入りするわけにはいかない!と思った私は、次の病院の予約日に仕事の休みをとって一緒に詳しい病状を聞きに行きました。

もちろん専門知識も全くないし、そこでの先生からの話だって動揺していて半分くらいしか覚えていません。

  • 余命というのは参考程度。もしこのまま何も治療しなかったらの場合の数字。
  • ガンはすでに転移していて手術をしても意味がない
  • 治療を希望するなら抗がん剤治療をやってみることはできるが根治は望めない

確かこんな話で、手術して腫瘍を取り除いて完治させるという可能性が絶たれていることを受け入れるしかありませんでした。

母という人

母が父と一緒に病院で余命宣告を受けた時、その第一声は

私はまだ死ねないんです。だったと聞いています。

実は私の妹は知的障害があって言葉でのやり取りもできないし、トイレやお風呂も解除が必要なんです。

母が一人で妹のお世話をしていたし、妹も母じゃないと受け入れないという感じだったので他の家族では妹のお世話についてわからないことだらけでした。

ATMも電子レンジも使えない父にまだ高校生の末っ子、障害がある妹がいるのに一人で先に死んでしまうなんてという気持ちがあったみたいです。

だから母の言葉は自分が死にたくないというよりも、家族を遺してこんなに早く死んでしまうことはできないという意味だったんじゃないかな。

育児も家事も基本的に家のことは一人でこなしてきた専業主婦の母が病気で寝込んでしまったら、当時の私たち家族は何もすることができなかったんです。

さすがに私もこれはマズイ。と、病気が発覚してからは毎日家事を教えてもらったりして母の代わりができるように頑張ることにしました。

今では私も子供が産まれて母親になったから当時の母の気持ちがわかるような気がします。

でも、私だったらいくら専業主婦といえども3人の子供(しかも1人は障がい児)がいて一人で家のことを全部やり切るのは無理ですきっと。

そこについては母はすごいなと尊敬してしまいます。

でも、そんな気持ちを抱いている今はもうその思いを伝えることもできません。

家族の前では強くたくましくあり続けた母の姿を思い出しながら私もそうありたいと思っています。

余命宣告を受けてから

それはもう急に人生が180度ひっくり返ったような衝撃で、急にバタバタと変わっていくことが多くて毎日が必死でガムシャラでした。

  • 知的障害がある妹が入れる施設を探す→空きが出るまで半年待ち
  • 私の仕事後の負担が増えてバタバタ(病院へ行ったり家事や妹の世話をしたり )

私の日常の変化もすごかったんですが、治療が始まった母のツラさはこんなものじゃなかったはずです。

抗がん剤での治療がスタート

検査結果から2週間後くらいから抗がん剤による治療がスタートしました。

一旦入院して抗がん剤を投与。

その後に自宅で辛い副作用と戦う時期を乗り越えてまた日常に戻るというサイクルを繰り返していきます。

やっぱりあっという間に髪は抜けていったし、ずっと気分が悪そうな様子の母。

トミー

あぁやっぱり抗がん剤って話に聞いていた通り、治療法としては本人の心身のダメージが大きすぎるなというのが印象でした。

3,4か月はそのサイクルで治療を進めていきました。

一旦は症状が好転。手術できるかもと言われる

そんな夏の日、

先生

抗がん剤で腫瘍が抑えられてきているから手術ができるかもしれません。

と予想外の嬉しい話があったんです!

その判断をするために詳しい検査(腹腔鏡手術)をしましょうとのこと。(母のガンは腹膜に転移があったんです。)

そんなこと言われたら私たち家族はもう期待しちゃって内心は大喜びでした。

…が、その結果やっぱり手術は無理ということに。

希望がまた絶たれてしまったというのが余計に辛かったのを覚えています。

そしてタイミングとしては、ちょうどこの時から抗がん剤が効かなくなってしまったのでした。

抗がん剤を変えてみることに(治験を勧められる)

担当医から、使っていた抗がん剤が効かなくなったので新しい薬を試してみないかとの提案がありました。

でもこれは治験というもので、一定数の患者には偽薬が使われるとのこと。

プラセボ効果による影響を考慮してのことだそうです。

プラセボ効果とは、効き目のある成分が何も入っていない薬を飲んでも、本人が効き目のある薬を飲んでいると思い込むことによって病気の症状が改善することです。

誰が偽薬を使われるかは無作為に選ばれるから本人にも分からないと告げられました。

トミー

そんな…もし偽薬だったら全く効果のない薬で治療のふりをするだけなの?と怖かったです…

結果的に偽薬だったのかどうかはわかりませんが、この抗がん剤の効果は全く感じられませんでした。

そして振り返って考えてみると、この頃から母は鬱っぽくなっていたように思います。

ガンに抗うことができない現状や抗がん剤の副作用による疲れ、そして自分に迫ってきている死を目の当たりにしていたら当然そうなりますよね…

治療を諦める決断をする

鬱っぽくなった母は「もう抗がん剤は嫌だ。治療はしなくていい」という気持ちを話してくれました。

私たち家族は諦めたくないという気持ちもありましたが、本人の気持ちを尊重して治療をやめて緩和ケアに移ることを決意。

すると、治療をしなくなるから当然これまで入退院を繰り返していた病院にはいられなくなることに。

  • ホスピス
  • 自宅での在宅看護

この2択から選択するしかありませんでした。

そして本人の希望により在宅看護に決定。

さらにこの頃、介護認定を受ける手続きをしました。

在宅看護をするにあたってどこまでのサービスが受けられるのか、少しでも金額を抑えてサービスが受けられるようにと病院側からの提案でした。

病院側のサポートがしっかりしていて、ケアマネージャーと地域の在宅看護をしている方と私を繋いでくれたので連携が取りやすく助かりました。

そして在宅看護をすると決めてからは目まぐるしく忙しかったです。

自宅も古くて広くもないので、ベッドや簡易トイレを置くために1部屋空けるために物を処分したり動かしたりが大変だったり。

ケアマネージャーの方と打ち合わせしてベッドやトイレなど、どこまでレンタルするのか業者の人とやりとりしたり。

銀行での仕事をしながら慣れない家事と並行して進めていくのが本当に大変でした。

そして準備が整ったらいよいよ母が退院。

在宅看護がスタートしました。

自宅での在宅看護から看取り

自宅に帰ってきても玄関から入ることもできず、両脇を支えられながら庭に面している窓からの帰宅。

やっと家に帰ってこれた。と母が少しホッとしているような様子が見えて、在宅看護に決めてよかったと思いました。

そのまま在宅看護の担当医師や看護師さん達との顔合わせ。

皆さんやっぱり慣れているだけあって、本当に優しい雰囲気で安心して頼れるような方々でした。

最初は週2で訪問看護師さんに来てもらうことに。病状の変化を見ながら訪問日数を増やしたり柔軟に対応してくれるとのことでした。(今回の場合は段階的に週3、1日おき、毎日と徐々に増やしてもらいました。)

最初は主にお風呂の介助が中心でしたが、訪問のたびに私たち家族にも無理をしていないか体調に変わりはないかと気を配っていただいて、元気ハツラツな看護師さんに気持ちの方もたくさん助けてもらったなと思っています。

一方で自宅に帰ってきてからの母は、目に見えて日に日に体調が悪化しているのがわかって辛かったです。

昨日までできていたことができなくなっていくのは母も怖かったんじゃないでしょうか。

  • ベッドから降りることができなくなって部屋の中の簡易トイレにも行けなくなった
  • 食事や歯磨きができなくなった
  • 処方された薬では痛みが抑えきれなくてどんどん増えていく薬の量
  • 薬が増えるにつれて思考障害が起きてせん妄の症状がひどくなっていった

特に私の中でも鮮明に記憶に残っているのが、

「あっち行け!お前なんか来るな!」と母に怒鳴られてしまったことです。

母は毎日一緒に過ごしている私のことですら一時的に誰かわからなくなってしまって、嫌な治療をしようとする医者だと思っているみたいでした。

母も寝て起きて落ち着いたらまた何事もなかったように普通に接してくれるんですが、せん妄の症状ってこうゆうことなんだなと怖さとショックで私は落ち込んでしまいました。

本人の意思で言ったことではないにしてもあまりに悲しくて。

母のおむつを変えたり、夜も母が寝ているすぐ隣の部屋でこたつで寝て睡眠不足の毎日で自分が風邪をひいてしまったり。

そんなことがあっても大変さなんて感じていなかったのに、母の言葉ひとつでショックを感じて始めて終末期の在宅看護の難しさを感じたのです。

でもそんな時に励ましてくれたのも訪問看護師さんでした。

一緒に泣いて一緒に笑ってくれるそんな人が担当だったおかげで本当に救われました。

在宅看護から1ヶ月半くらいが経過した頃、もうそろそろいつ息を引き取ってもおかしくないということを伝えられた時にも看護師さんが一緒に泣いてくれたのは忘れられません。

最期の2日間くらいは母方の祖母や叔母たちもみんなで自宅に寝泊まりをして、母のベットを囲んで話したりゆっくりと別れの時を迎えることに。

もちろん最後の看取りも家族全員で手を握りながらすることができました。

これはやっぱり在宅看護と在宅での看取りを決意したからこその良さであり貴重な体験だったと思います。

さいごに

母の病気が判明してからは、

  • なんでもっと早く体調の変化に気付いてあげられなかったんだろう。
  • もしかしてあの時のダルそうなときからガンだったの?
  • 自分のことばっかり後回しにしないで健康診断した方がいいともっと言ってあげるべきだった

そんなもうどうにもならないことばかりが頭の中でグルグルしていました。

特に在宅看護を選んでからの1ヶ月半の間は、弱っていく母をただ見続けることしかできないのか、もっと何かしてあげられることがあるんじゃないかと自問自答の日々でした。

当時、母がみんなに手紙を残したいと言ってくれた時も便箋がなくて慌てて買いに行ったのですが、帰ってきたらもう眠ってしまっていてそれ以降は手紙を書く気力もないと言って書かなかったんです。

もし私がもっと早く帰っていたら、もし家にある広告チラシの裏でもいいから何か書いてもらっていたら。

母が最後に残したかったメッセージがあったかもしれないと思うと、悔やんでも悔やみきれません。

7回忌が済んだ今でもまだこのことをたまに思い出すからよっぽどなんですよねきっと。

やり残したことは一生忘れることなく、ずっと心の中に残り続けてしまいます。

余命宣告をされた時、治療を諦めて緩和ケアに切り替えた時、大切な人との別れの時。

たくさんの悲しいことが積み重なってしまうそんな中でも、残された時間をどう過ごしていくのか、もっと自分にできることがあるんじゃないか、という気持ちだけはずっと忘れないで過ごした1年弱の日々。

私の人生において本当に忘れられない時間になりました。

今あなたの大切な人と過ごせているその時間は貴重な時間なんだということを覚えておいてもらえたら嬉しいです。

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